2013年の黒田バズーカ
当時、日銀総裁に就任した黒田氏は、2%のインフレ目標達成のため、大胆な金融緩和をすると発表しました。
アベノミクスの第1の柱とされ、黒田バズーカと言われました。
その後、成長戦略等は声掛けのみで特段記憶に残るものはなく、結局第1の柱のみ、つまり金融緩和をしただけという印象です。
当時から、私は「そんなことで良くなる訳がない」と強く信じ、批判的でした。
金融緩和も一旦円安に誘導することには成功したように見え、ETF買いもあり株価を押し上げる要因としては機能した様にも見えます。
しかし、金融緩和による溢れた資金は日銀当座預金に滞留し、市中に出回るマネーの量はそれほど変わらなかったのです。
ただ、当時の私は思いました、「こんなバカげたことやっている様では、将来の日本は不安だ。この金融緩和に出口はないのではないか。将来円の価値が失われ、猛烈な円安からのインフレが起きるのではないか・・・」と。強烈な不安がありました。
強烈な不安から運命のクリック
当時の私は、運用に関しては小規模に取り組んで勝ったり負けたり、またリーマンショックでは最終的には大ケガはしなかったものの、怖い思いをして、運用にはおよび腰でした。
しかし、当時はこの強烈な不安から、すべて円はまずいと強く思いました。
米ドルへの分散は必要だ、しかし株式は少し怖い、そうだ債券ならば少し安心だと、米国ドル建ての社債購入を決断しました。
当時は、子供も生まれたばかりで、大きな金額を投資するには、正直言って不安が強く、最後に買いを入れるクリックする時には手が震えました。
しかし、前述のロジックを何度も自身の中で反芻し、遂にクリックしました。
その日は1日、何度も自分の決断を振り返り続けました。
当時は金利が5%くらいの債券を購入したため、10年後には合計50%のクーポンが得られるので、採算分岐の為替レートは当時の1ドル80円から50~60円程度まで下がるということが、自分の中での支えでした。
その後、1ドル80円だった為替は、125円まで進行しました。それでも売らずに、現在では1ドル110円程度です。
ただ、当時の投資額に対するリターンは、為替差益とクーポン収入の合計で約80%にも及んでいます。
その後、値動きにも慣れ、株式や投信も増やしてきたことも考えれば、このクリックが私のFIREへの道への起点となったと言っても過言ではありません。
There is a will, there is away!
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